科学哲学の話

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この記事はwhywaita Advent Calender 2024の21日目の記事です。

前日はhinananohaさんの誤自宅で簡単にできる白菜漬けでした。

やはり飯テロAdvent Calenderでは?

科学とは何か

whywaitaとは哲学である。

ゆえに、科学哲学についてある程度さわりの部分を語っていこうと思う。

まず、科学とは何かについて論じていきたいが、実のところこれ自体がかなり深遠な問であり、極めて解答に困るものであるのだ。

これは、科学と科学でないものの境界を定めるのが極めて困難であることに起因する。実は科学という概念そのものが、この上なく曖昧であることを暴いていこう。

科学と非科学の線引きのうち、よくありがちな例をいくつか取り上げていこう。

なお、この記事において科学という時は基本的に自然科学を指すものとして扱い、形式科学や人文科学などについては(難しくなるため)基本的に論じないこととする。

再現性による区分

十分に条件がそろった環境で、同じ観察や実験を何度繰り返しても同じような結果が得られることを再現性と呼ぶ。自然法則はいつでもどこでも同様に成立しているはずであるから、その法則を確認する実験や観察はいつやっても同様の結果が得られるはずであろう。そして、そのような再現性があるものが科学であると説く人があらゆる場所にいる。

確かに、科学というものは自然の法則を解き明かすことを目的とするから、自然法則が常在不変のものであるという想定(自然の斉一性)の下では再現性のあるものが科学であるという言説には一定の説得力がある。

だがしかし、この説には極めて重大な問題点が存在している。果たして一般的に科学と称される領域のうちどれほどが再現性を有しているのであろうか。

例えば、現代の素粒子物理学の最新の成果は現実的に再現性があるといっていいのであろうか。また、現象を再現する手法を探る試みは非科学なのであろうか。

現実の科学の現場においては時によって再現できたりできなかったりすることが多々ある。新元素の合成などがいい例で、条件をそろえても再現できるか否かは基本的に運の側面が大きく、成功しても生成される原子の数はせいぜい数個である。

そもそも現実の科学においては1回限りの(=再現性がない)現象を取り扱うような分野も多い。例えば、宇宙の起源を探る宇宙論や、地球の歴史を探る地質学などに再現性があるのかどうかは疑問である。

要するに、再現性というのは科学の十分条件にはなりえるが、少なくとも必要条件ではないということである。

反証可能性による区分

もう一つ、良く見受けられる科学と非科学の線引きの方法として、ポパーによって提唱された反証可能性というものがある。これは、科学的な命題は経験的な手法によって反証可能でなければならないという考え方である。そして科学理論は、反証可能な命題のうち、未だに反証されていないものであるということである。

これは、一見よさそうに思える。宗教・神学などはその内に反証を認めない仕組みを内包しているために非科学となるというのはとてももっともらしい。だが、この説にも問題がある。

そもそもある科学的な仮説が厳密に反証されることはありえるのであろうか。基本的に科学における仮説はそれ単独で現実の事物を予測することはなく、例えば実験器具や環境などの補助的な仮説をいくつか組み合わせることで実際に検証可能な予測を行うことができる。そのため、この予測に反する結果が得られたとしても、その仮説が間違いであると断定することはできない。補助的な仮説のいずれかが誤りであった可能性を排除できないからである。

超光速ニュートリノの発見がいい例で、これは本当に正しい実験なら相対性理論の破綻を示すものであったが、結局は実験設備に不具合があったために誤った結果が出たということが判明した。この例においては、「実験設備は正常に動作している」という補助仮説が誤りであって、相対性理論が誤りであるということを示すものではなかったということである。これは、論理的には反証可能性を持つ仮説は存在しえないことを意味している。

だが、実際にはその補助的な仮説が成立していることを十分に確認できている状況は存在しうるし、それによって仮説が反証されることもありうる。ただ、この意味で反証を考えると、今度は占いによる予言などが実際に反証されていることから鑑みるに反証されうるのであるから科学的な主張となり、むしろ反証可能性によって排除されるもののの方が少ないことがわかる。

また、この補助的な仮説を利用して仮説が反証されたときに、補助的な仮説の方を批判して本体の仮説を守るということもできるのである。ポパーはそのような方策を取らないことこそが科学的であると主張した。この時点で科学の判定基準が仮説の反証可能性から不利な証拠が現れた際の方法論に変化していることがわかる。

ただ、これにもまだ問題点があり、現実の科学においてはそのようなことがしばしば行われてきたという点を無視しているという点が挙げられる。地動説は当初は太陽の歳差運動が観測されないという理由で否定されたが、この際に太陽が我々の想像よりはるか遠くにあるという仮説を追加することで反証を回避した。また、天王星の軌道がニュートン力学による予測と合わないという問題が発生した時には、その外側にまだ未発見の惑星が存在するという仮説を追加することで問題を解決した。これらも、ポパーの基準を何も考えずに宛がえば、非科学的な行為であるということになる。正直に言ってこれはあまりにも厳しすぎる条件としか言いようがない。

ここで、どの程度補助仮説の導入を許容するかという問題が生じるが、これを決定するのは極めて困難であり、科学と非科学の線引きには不適切であると言える。

例えば、「いつか地震が起きる」という仮説は予測はしているが反証可能性が殆どない。反証可能性も連続的な分布をしており、その境界をどこに置くかは極めて難しい。

区分は存在しえない

他にも様々な手法で科学と非科学を区分しようとする試みはあるが、いずれもその限界がある。そして、ラウダンによる「境界設定問題の逝去」という論文によってこの問題はとどめを刺された。

実のところ、科学と呼ばれる営みは実に多岐に渡り、その性質も多様である。それゆえに、同じ科学と称されていても共通項が見いだせる確率は極めて低く、「科学と非科学の区分」を定めることそのものが非科学的な問いであると言わざるを得ないという。そのうえで、区別すべきは根拠なきものと根拠のあるもの、ということである。

そして、これはある仮説が科学的であるか否かは結局のところ我々の恣意的な判断に依存するということである。科学と非科学の区分は、絶対的なものはなく常にグレーゾーンが存在しうるということである。

明日はUdon君による「部誌あたりの話の予定」らしいです。5回連続で部誌担当を務めた人がする話なので楽しみですね。